SAC東京4期コースⅡ第6回月例会 事務局レポート
日本人の死生観 過去・現在・未来
日本人の死生観〜過去・現在・未来〜をテーマに鈴木岩弓特任教授の登壇です。「死の問題を語る時代になり、時代が僕に追いついてきました」と、満面の笑顔で、重くなりがちな死生観の講義を軽やかに開始しました。
はじめに
—死生(しせい)と生死(しょうじ)—
言葉の定義を紐解きます。そして、先生は自身の死生観を紹介してくれました。
<死に対して想いを巡らす>+<死を見据えてどう生きるか?>
自分の死は、想定はできても経験はできません。自分の死は、他者の死を鏡にするしかないのです。死に関わることや、儀礼から察することが少なくなっていることが問題であることが分かります。
いのちの始まり
法律からみた場合、医学から見た場合、宗教からみた場合、民族社会における「いのちの始まり」など、色々な視点でいのちの始まりを考えます。国や宗教によっていのちの捉え方が異なることを知り、不思議な気持ちになりました。
現代の日本では人工妊娠中絶は妊娠22週未満とされています。しかし、21週の出産でも生きている子供がいます。いのちの始まりは人間社会によって定義づけられていることを知りました。
死の始まり
死の三徴候(心停止・呼吸停止・瞳孔散大)が有名ですが、臓器移植をする場合は「脳死」を基準としています。移植医療のためには三徴候を待てないからです。
文化=way of life (生活様式)
生と死の決め手は真理ではなく、あくまで人が決める「文化」として考えられるようになってきたのです。死の話を忌み嫌っていた参加者も「なるほどな」と捉えられるようになっているようでした。
超高齢多死社会到来
1985年頃から脳死という概念が一般庶民にも意識されるようになり、日本人の生き方・死に方に変化が出てきました。現在、多くの雑誌が、墓・葬式・死などが取り上げるようになった契機は脳死問題だったと鈴木先生はお考えです。
死とは?
脳死は人の死か、人の死でないか?と問いかけます。臓器移植を前提とするのであれば脳死は死です。しかし、臓器移植をしないのであれば、死の三徴候を待って死とします。死とは、生物的心理でも、哲学的心理でもなく、人間が作った文化なのです。
Quality of Dying
QODのDeathはDyingと説く鈴木先生です。死の時だけでなく、死に向かっていく過程の質を大切にする考えをあらためて参加者に伝えました。
アイスブレイク
村田特任教授が質問しながら講義内容を深掘りしていきます。
Q1.生の儀礼と死の儀礼における数値が一緒なのは?
Q2.なぜ、霊魂を基準に儀礼ができたのか?
Q3.結婚すると安定とあるが、結婚しないと不安定なのか?
Q4.日本人の宗教離れのトリガーは?
Q5.脳死問題以外に死がタブーでなくなったキッカケは?
Q6.個の倫理はこの先どうなるのか?
パネルトーク
パネリストは参加者代表の3名と鈴木先生です。小川事務局長がモデレータとなり、会場を巻き込んで死生観について考えました。
Q1.これから、死生観はどう捉え、どう変わっていくのか?
Q2.お墓やお坊さんはどうなるの?墓はなくなるの?
Q3.安楽死は今後どうなるのか?
Q4.死生観の変化について教えて
Q5.教誨師について教えて
Q6.人間以外の生き物で死を弔う例を教えて
Q7.死生観を都市計画で考えるとどうか?
Q8.後見人制度のアドバイスは増えるか?
Q9.信仰のある人は死生観を持っているのか?
丁寧にコメントしてくださる鈴木先生です。
日本人は都合よく、困ったときの神頼みや、正月は寺に参拝するなど、良い塩梅に動いていると言われて苦笑いする参加者たちでした。
これからの子供達に死生観を学ばせるためには、死に触れさせるべきであることを強調します。
東京は人間が入れ替わっていて、固有文化が軸にないことが指摘されました。伝統文化や地域の縁がなくなっている都市部は地域から学ぶことが多いようです。
総括
超々高齢社会は超多死社会であり、自分の死、終末期を考えなくてはならない時代です。10年前と今は違い、10年後も違うでしょう。村田特任教授から「こんなサービスがあったら良いねを考えてみましょう」と提案されました。
以上
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(文責:SAC東京事務局)
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